水神様と祀られる近代農業開発の礎

明治5(1872)年から16年頃にかけて伊那地方では、当時水田用などに天竜川の支流の水を頼っていたが、度重なる干ばつや洪水で地域の人々は水不足に悩み水抗争が絶えなかったという。

そこで、この地に室町時代から続く旧家の御子柴家の7代目、艶三郎は私財を投げ打ち、長さ約600mの横穴式井戸の灌漑施設を完成させた。井戸は正確に一定の割合でどの用水路にも配分されるよう円筒分水型をしている。

現在もコンコンと湧き、艶三郎の名が付けられている。若き日は水抗争の先頭に立ち百姓たちのために大暴れしていたが、ある日、戦うよりも安定した米作りが人々生活のためだと、灌漑施設を作るための水脈を探し当てることに目覚め、農地を買い占めては掘削をした。
しかし、もともと地盤が柔らかく掘削の途中で壁面が崩落したり、資金が底をつくなど困難が続いたが、水路設計図を引き、水路上に母井戸となる縦井戸を堀り、そこから横穴を掘り進め、70~80m先にまた縦井戸を掘る。
これを繰り返し約10年の歳月をかけ遂に完成させたのが、円筒の中央に水が供給される円筒分水祭用水路だ。

度重なる困難に「完成の折には水神様にこの身を」と願をかけたことを守り、完成時に自害する。今も地元の人々は艶三郎を水神様と呼び尊ぶ。